Days of Mac and Run

2022年6月に腰椎後方固定術で腰部にチタンスクリューを埋め込んだ元サブ3.5ランナーのジョグブログ

震災から5年

沖縄から帰ってきて、なにかと忙しい日々が続いている。しかも来週の板橋Cityマラソンまで、ずっと休みなし。愚痴を言ったところで、なにもいいことはないのこれぐらいにしておこう。

そして、本日は帰宅してから、気休めにしかならないJOGへ。

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震災からちょうど5年の今日、朝早く両親に電話をした。病院に出掛ける直前だったため、「あとでかけ直すから…。」とすぐに電話を切られた。

あのときのことは、今でも鮮明に覚えている。

震災の3日前(3月8日)から仙台から岩手、青森と仕事で出掛け、震災の前日(3/10)に青森から帰宅。震災の前々日に仙台で大きな地震に遭っている。八戸から青森空港まで猛吹雪の中、車をとばし、何とかギリギリで予定の便に搭乗。無事に羽田に戻ってきたのが震災の前日。あの猛吹雪の中、もし飛行機に間に合わなかったら、おそらく数日間青森に足止めをくらっていただろう。

3/10 午前5時55分 八戸市内のホテルで撮影

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そして、3月11日午後2時46分。

 

テレビで次々と東北各地の様子が報道される。釜石の海沿いに住む両親に電話をするが全く通じず、2日が過ぎた。

 

そして、3/13(土)の夜、避難している方々の名前が延々と読み上げられているIBCラジオの放送で、両親の無事を知ることになる。

 

当時ガソリンが不足している中、兄は未明からガソリンスタンドに並び、ようやく往復出来るだけのガソリンを給油し、両親が避難している小学校へ向かった。

両親と再会出来たときの様子は、今でも思い出して涙がでてくる。

 

数日後、母親から電話で聞いた「その時」のことをメモっている。

地震のあと、津波を知らせる町内放送など一切なく、町内会の班長さんの「津波が来るから逃げろ!!」という叫び声で着の身着のままでご近所の方と10名ほどで指定避難場所に向かう。ここまでくれば安心と思ったのもつかの間、みるみるうちに津波が押し寄せて来たらしい。「もっと高いところに逃げろ!!」と叫んだ班長さんとはそれ以後、避難所でも会えず。そこからはみんなバラバラに這うように山を登り、気がついた時には両親二人だけ。水が引けていない状態で山を下りる事もできず、たき火をして暖をとる。さすがに日沈むと凍え死んでしまうので、灯りが灯っている方角に歩き始め、その日は見ず知らずの方のお宅にお世話に。両親の話からお世話になったお宅の場所を推測すると2kmは山を彷徨ったことになるだろう。そして翌朝、水が引けたのを確認し、やっとの思いで避難所に辿り着く。

 

今日一日、テレビのスイッチを入れると震災のことばかり。実は、震災復興支援ソングである「花は咲く」と「公共広告機構」のあのCMは、聴きたくも見たくもないのが本音である。

関係者の方、ごめんなさい。

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震災から3ヶ月後、実家があった場所を撮影